曳山祭について | |||||
曳山祭は山車、祭屋台、山鉾、だんじりなどが繰り出す祭りの総称で、古くから伝わる日本の伝統文化です。それらは豪華絢爛な構造物、様々な技法を駆使した祭囃子、人々の力を集結した曳き回しなど、多くの見どころがあります。これらの祭り本来の意味を知ることで、祭りへの感銘が深まるかもしれません。 ・祇園祭 画像をクリックすると動画が再生されます(Youtube)。 京都の祇園祭は1000年以上続いているもので、ほとんどの曳山祭に影響を与えているといっても過言ではありません。そこで簡単に祇園祭について説明します。 西暦800年頃、疫病や飢饉などは怨霊が災いを起こしていると考え、それを治めるために御霊会(ごりょうえ)信仰が流行りました。祇園社(現八坂神社)では牛頭天王(ごずてんのう)と素盞鳴尊(すさのおのみこと)を祀り、66本の鉾を立てて神輿を送ったのが祇園祭の始まりとされます。66という数字は当時の統治単位である州の数に合わせたものです。各地で天王祭や天王様と呼ばれている天王とは牛頭天王を意味し、祇園祭の流れをくんでいるとされます。 京都祇園祭は7月の1ヶ月間、様々な行事が行われます。特に有名なのが16日の宵山、17日の山鉾巡行と、その後の神輿渡御(神幸祭)になります。神輿が八坂神社から御旅所までを渡御することが最大の盛儀になるのですが、知らない人も多いようです。実は山鉾巡行は山鉾に悪霊などを吸い寄せて街を清めるのが本来の目的とされます。ですから巡行が終わって各町内に戻ると山鉾はすぐに解体します。神輿は御旅所に24日までとどまり、還幸祭で八坂神社に戻ります。平成26年から、後祭として山鉾巡行が復活しました。 詳しくはこちらをご覧ください。 ・「江戸天下祭」
平安朝の頃、都市の発達に依る疫病の流行、社会的災難が多発し、これは怨霊の仕業と考えられました。その怨念を宥(なだ)めすかして避ける為に、華やかにして強力な祇園の祭が発生しました。神輿の渡御や鉾や山車の行列に依って、怨霊を畏服退散せしめるのが、祇園の夏祭りです。この祭りは全国に都市が成立するに従って伝播し、江戸にあっては6月15日の日枝山王の祭礼となり、旧9月15日の神田明神の祭礼となりました。両社の神輿行列は、江戸城に参入し、将軍の上覧を賜り、天下祭と称されることになりました。両社とも古来の春秋の氏神祭に合せて、祇園の夏祭り形式の御祭礼が行われることになりました。神田祭などは、かつて山王祭と隔年で行い、神輿に供奉(ぐふ)する山車や練物などの絢爛豪華な行列が江戸城へ繰り込みました。しかし、明治維新で拠り所であった将軍家を失い、追い討ちをかけるように、電線の普及で山車が曳けなくなり、各町自慢の山車が地方の祭りに身売りされて四散し、それが現在、関東各地に見られる山車の形情的姿です。 その流れは、宮廷の儀礼として行われた年中行事が、しだいに一般庶民にもゆきわたり、なかには庶民の行事として行われたものが、貴族や武家にも及んでいったものもあります。そして、毎年行われる庶民の諸慣習を年中行事と言うようになったのですが、京都の祇園祭に見るように、年中行事は外来の習俗の影響、地域や社会事情、さまざまな生活文化の関わりなどによって、かなり複雑な変化を遂げ、それらは異なる行事として伝えられてきました。年中行事の形態は時代とともに変化はしましたが、古くからその本質は変わることなく引き継がれてきたのです。 ・山車の意味 山車の本来の意味は、祭りの場に神を招くための依代の一種で、神が来臨する時に目印となるように鉾の上に「出し」示した鬚籠(ひげこ)*のことであると言われています。この髭籠とは竹で編んだ籠のことで、編み残しの端が鬚のようになっているものです。 この髭籠を高いところから降臨する神の目印になるように「出し」たところから「ダシ」という言葉が生まれ、それに意味を含ませて「山車」という表記をしたものだと考えられています。 それではどうして髭籠なのでしょうか。そもそも竹はその成長の驚異的な速さから、生命力みなぎる植物とみなされ、超自然的な働きをする霊力があると考えられていました。呪術の用具として竹器が用いられていたのもこのためです。竹器の一つである髭籠は、平安時代頃から贈りものの容れ物として用いられるようになりましたが、それ以前からこの籠は神への供物容れでありました。折口信夫によれば、それは神の在処であり、また、太陽神を表すものでありました。髭籠の編み残し(ヒゲ)を太陽の後光とみなし、籠本体を日神を象ったものと考えたそうです。 *こちらに動画で説明しています。 |