・祇園祭の由来と本質

 祇園祭は貞観11年(869)に京都に疫病が流行した時、勅を奉じて神泉苑に66本の鉾を立てて祇園の神を祀り、洛中の男児が祇園社の神輿を八坂神社から神泉苑に送って災厄の除去を祈ったに由来することから、祇園祭の本質は神社の渡御のことをさす。祇園祭の本質である神輿渡御の神幸祭の御神幸といわれる神の御旅所へのいでましは、祭礼のクライマックスとなっている。この神幸祭(御神幸)の出発は17日午後6時とされ、その場所は四条通祇園石段下である。

 この神幸祭に先がけて17日の午前9時から約6時間程かけて行われる附け祭りの山鉾巡行は、夜からの神幸祭渡御のために街々に散っている悪霊や邪気を鉾柱に付いている榊が吸い寄せて、氏子の街々を神聖な環境にする、いわゆる露払いの役目として行われているのである。また、この山鉾巡行のように生稚児が祭礼の中に見られる祭りの特徴は、秦氏の始めた祭りの特徴であるとされ、一ツ物神事と称されている。


・神事としての伝統行事を考える

 時代とともに変化していく祭り、このことを考えた時、明治維新以降、日本の祭りは約140年の短期間において大きく祭礼形態の流れを変えてしまった。それは時代の流れということだけで、何も疑問を持たずにこのまま未来へ突き進んで良いのであろうか。何かがおかしい。
 その祭りの流れの中に身を委ねていて、そのことに気がつく人は、残念ながらまずいない。気がつくのはごく一部の人間だけである。

 古来からの祭り、伝統と歴史をかたどる祭りの姿と流れ。日本民族の祭りとは何か?その答えはイベントでも、カーニバルやフェスティバル、そして観光行事でもない。日本民族の「神を祀る祭り」なのである。日本の歴史ある祭りは『神の神事なくして祭りなし』という信仰心から来るものなのである。
 神様の神事の範囲のことには色々な決め事や儀式・仕来たり(しきたり)が複雑に数多く存在する。また、祭りにはその根源となる歴史的文化の意味が存在していて、附け祭の世界だけではないのである。

 現在の学校教育の中では、歴史分野において、古代史からなる民俗学の神と祭りの真実を結びつけて語る教育がなされていない事に、風土の中にある神々の神話史説が成り立たなく、神事としての祭りの形態が一般的に理解されずに、祭礼はイベント的に行われる。その中で神事祭礼の附け祭りの鉾・山・山車・屋台などの附け祭りのほとんどが神社の祭りよりもますます風流的祭礼として有名となっている。しかし、信仰心が薄れていく中で、神(神社)に対してはどのように伝統行事として色合いを求めていくことが良いのか。神社という立場もあるなかで、神(神社)というものをどのように理解していくかが問われているが、神社に対しては宗教的な意味合いとして、人々が住んでいる地域を司るものとして解釈してほしい。
 今の時代、せめてそのくらいの理解と解釈がなければ日本民族としての誇りも失われてしまう。一人一人が自分自身の考えで、祭りを囲む環境や祭りへの真意に対する考え方を真剣に考えていく時期に来ている。

 近世、特に明治維新から住民の生活は近代化を急ぐあまり強権的な国家主義路線を選択したために、中央集権を強化させるに至った。その結果、個人や地域の自主性を徹底的に奪われた。その結果、その近代化路線に伴い町を束ねていた氏子的法人格を全て失い『町内会』という無力な任意団体と化したのである。
 しかし祭りは一定の祭祀集団によって執り行われているのである。その最も一般的なものは、氏子集団によって行われる氏神祭である。氏子の氏神を祀るのは、義務というより権利である。
 実は、逆にいえば立法司法行政すべての分野において、権力から唯一手付かずに残った公的行事が祭礼であったといえる。そして、祭礼とは国家司法権に奪われたとされる地域の独立自衛や自主の精神・自己決定能力についての象徴的姿と、新たなる心の支えと心意気の息吹なのだ。
 日本民族としての神を祀る祭りであり、曳山の錬る所、神聖な場所となる習わしが存在しているのである。そして、自己の神と賑わい、そして相手の曳山と曳き手を互いに魅了する、魅せる行為そのものが祭りなのである。

 以前、元町二丁目の川越の代表的な祭り人、故木下雅博氏が町の為に残された「川越祭りヘの提言」という筆文がある。その中で次のように書かれている。
 「民俗信仰(神事)があり、繰り返される事がシキタリ(儀式の決め事)となり、その土地の祭り様式が形執られてきたが、もはや自分の住んでいる町がどんな神様に守られてるのか、ほとんど知らない時代になってきた。そればかりか、隣近所同士の挨拶さえもしないことに慣れた生活を送っている現代の都市生活者の心性(認識)の祭りとは何なのであろう。本来の祭り感情(真意)を忘れて、ぎすぎすした気持(人間関係)で個々が刺激を求めて騒ぐようでは困るが、やはり祭りは、町の期待(司執る神へのご奉仕精神)をかけて全力でひた走る命の燃焼(慈しみの心)であってほしい。」 との内容である。※文中()は言葉の解釈。

 今の時代なぜか神の教え(日本の神々は、私達の遠い祖先に共同生活を守りぬく為の「理想的な行い」を示して下さいました)を理解する理念をもたないのであろうか。
 これは地域という枠の中で人間が地縁の絆で共同生活(親睦)をしていく上でとても必要なる道徳理念(人間としての知識)を自然に養う意味もこの神社社会は備えているわけで、政治力とは違う力(神が与えた教え)が目に見えないカで存在している。であるからして、「神事無くして、祭り無し」なのであり、この神事祭礼の主権(主権者)はいかなる事が生じても神(神社)なのであって、常に神は上位でなければならない。


・民俗学と祭り

 今日、我々日本人の風俗、習慣はものすごい勢いで変わりつつある。
 祭りというものの定義をここに述べると、風土の中に神霊を祀るもの、祖先の霊を祀るもの、春の豊作祈願、秋の収穫感謝と、いろいろな祭りはある。しかしながら、いかなる祭りにおいても、日本人が生きていく生き方の基本的なものが、この庶民的な行事の中に生き続けてきているという事実は誰も否めないと思う。

 日本人の生活の形がどのように変わろうと、その流れの中に日本人を日本人たらしめている根源的なものがあることは言うまでもない。さらに、庶民の生活感情にがっしりと支えられているものであって、その歴史的根幹を示すのが民俗学である。


・未来へ向かって、祭礼への基本的観点

 祭りの日とは特別な日であって。そのことは今日よりも以前(昔)の方が祭りの神秘性というものが心に残る点においては数段上でした。それは強い信仰心的崇敬の念からくる心の意志があったからでしょうか。明治生まれの人達が口をそろえて言っていた「今の祭りよりも昔の祭りの方が全てにおいて良かった」と。この言葉は何を意味しているのでしょうか。その大きな要因は、当時は「氏子」の枠であったが為であったのですが、今では町内会(自治会)という枠単位で行われているからであって、この事は昭和二十年の終戦以後、政教分離がなされた中で、昭和30年代に国土発展という課題を託した目的の違う「祭礼の振興」という政治的な要素の物が世の中に起こり始めました。それは、信仰心や、崇敬心とは別の意識で付け祭を増大させて風流的観光心を仰ぎ立て祭礼を興行的見せ物心理へと変化させてしまいました。ある意味では地域の祭りという物には、振興という邪魔なものは必要なかったのであるといえます。その事はほとんど誰も気がついていません。

 我が国の現行憲法では、政教分離をうたった第二十条の「信教の自由は何人もこれを保障する。いかなる宗教団体も国(行政)から特権を受け、又、政治上の権力を行使してはならない」とうたわれているのですが、これは民間(氏子)の信仰心からなる形態行動への行う側の「権利」を意味しています。
 我が国は戦後六十八年をすぎ、祭礼の振興が囁かれ始めてから約五十年、国が豊かになった今現在、これからの祭りの振興は伝統行事としての文化的もののみかたへ移行していかなければなりません。そうする事により、伝統祭礼の目的は見せる物ではないわけであって、観客に見てもらっての伝統でもないことからしてこの振興の移行は国民として祭礼文化を理解してもらう為の大切な意味の本質を担っていると言えます。又、憲法20条の意味においでは民間の自由な祭礼交流の意味としての「連帯の絆」も含まれています。

 これからの祭礼を見る側への姿勢として、振興は本来、山車は祭礼のときに用いられるものなので、まず祭りについて知ることが必要であって、神社建築と同じように山車が作られているので.日本の伝統的な建築についての知識も必要であるといえます。また、理屈はともかく彫刻を工芸的に鑑賞することもでき、その彫刻のモチーフを知るには「古事記」や「日本書紀」などの日本の神話、中国の故事などを調べる必要があります。

 また、山車をだれがいつごろ作ったかを考えると、宮大工、車大工(棒屋)、鍛冶屋、彫刻師、飾り金具などをつくる職人、普段山車の管理を行っている氏子や鳶の人々など、伝統的な地域の組織や機能、さまざまな職業に思いがおよぴます。そして、文明開化明治維新以後、市街地に架線が出現した近代のまちづくりは、山車人形を乗せず、構造もかえてきた山車の姿と密接に関係してきます。

 全国には400件くらいの山車祭りが行われています。これらの山車を知るには、他の地方の山車にも注目し、広い視野で比較し、そして、祭のさまざまな催しを楽しむとともに、伝統あるまちの文化財をみるよい機会です。
 最初はどの山車がどこの町会のものか全然わかりませんが、そこであきらめないで、神様が乗り移っているとされる山車の巡行や、神様が共感しているとされるお囃子が演じられている山車を良く見て楽しんでください。そのように神様に触れ合う事によって幸せになれるかもしれません。目的をもって何年も継続して見ると、一味違った信仰的日本の文化がみえてきます。


・一ツ物神事

 日本で一番有名な祭は京都の八坂神社さんの祇園祭である。我国には良く三大祭という言葉を耳にするが何を基準にしたものであるのか一般的には良く分らない。
 ただ祇園祭は文化の歴史的背景や祭りそのものの中に蓄積されている全ての物が非常に重い意味を持っている事は確かと言える。
 日本の国程、多神教的な国はないと思うし現在において中国、北朝鮮、韓国にはほとんど祭りは無い。昔は多少有ったようであるが、祭りを行って人が集まるとそれが反政府運動につながると言う事で政府の命令でやめさせてしまったようである。
 しかし日本では昔から祭りというものは信仰心から来る神道という理念的感念が具わったと言える。我が国のそのような祭礼文化は国土に災害が多い国であったゆえに神に対する信仰理念が発達したとも思えるが、飛鳥期あたりから大きく神社革命が起こり、それ以前の古い神託はことごとく時の時代に合わせるように変えられてきた歴史がある。
 しかしその古い形態と新しい形態感念が合体して日本の神託は今日まで来ている。それは縄文人と弥生人の合体でもあったと言える。縄文人、弥生人のどちらも元を正せば大陸から来た民である事をここに前置する。人類学、考古学、民俗学や世界史などとの対比論学を見て行かないと日本の祭り文化は解らないであろうと思う。

 その観点から祇園祭を見てみると、一つの渡来系の文化が見えてくるから不思議である。その大きな特徴としては生稚児がいる事である。この稚児が居る祭りはやたらには無いが、いくつかは存在している。
 夏に行われている天王祭りは八坂神の信仰の祭りとして全国に広まっているが、一部の祭以外に稚児は出ない。しかし、季節が9月、10月頃と5月頃の祭りにもこの稚児が出る祭りはある。愛知県半田市北半田住吉神社の「ちんとろ祭」や「津島の祭り」、兵庫県高砂市「曽根天満宮の祭り」に生稚児の出現が見られる。
 ところで祇園祭りなどに観られるこれらの稚児の存在形態を「一つ物神事」という。「一つ物」とは一つしかない大切な物という意味である。一つ物と呼ばれる幼い男の子が主を演じるのであるが、その幼子は女の子かと見まちがう程化粧をしているが、男の子である。斎戒沐浴(さいかいもくよく)して身を清めて、着飾って現れる。この子は「神の子」「神の使い」であるからである。
 日本神道には神の霊が降臨して物や人に宿るという信仰がある。この一ツ物と呼ばれる男の子にも神の霊が宿るとされ、その為にこの男の子は神子、神の使いとされている。京都祇園祭や曽根天満宮など他にも伝わっているこの祭り、「一ツ物神事」は元は秦氏の祭りだったと言われているものなのだ。
 一ツ物とされる男の子は、神社に入ると拝殿内にて盃を取りかわして、その後一ツ物は各地方を巡るとされている。一ツ物の男の子は各地域の「祝福の基」となるのであるそうで、それは長野県の諏訪大社に伝わるイサク奉献伝承にも色こく残されていて、その内容は次の内容の行事である。

 「モリヤの地でアブラハムはイサクを縛り祭壇のたき木の上に置いた。アブラハムは小刀を取り出してイサクをほうむろうとしたその時、神の天使が表われて、彼の手を止めた。その神のお使いの天使は「あなたの手をその子に下してはならない。その子には何もしてはならない。今、私はあなたが神を恐れることが良くわかった。あなたは自分の子イサクを、その自分の一人っ子さえ惜しまないで私に捧げようとした」という場面の内容である。そしてその子イサクの代わりに角をやぶにひっかけていた雄羊を全焼のいけにえとして捧げたという。それが諏訪大社の古く昔から伝わる神事行事「御頭祭」として残っているのである。
 諏訪大社のそれは、「御贄柱」と呼ばれている柱に少年を縄で縛り上げ、人々は柱ごと竹のむしろの上に押し上げて、その時に神官が小刀を少年目掛けて振り上げる。その時に別の場所から使いの者が表われて、それを止めて、少年は解きはなたれる。その後その少年は各地へと神の意を伝える為に旅に出たとされているのである。これは正しく「一ツ物」である。
 そして諏訪大社が面しているモリヤ山の神は、モリヤ神「洩矢神又は守矢神」と記される神である。ユダヤ教で「モリヤの神」と言えば、聖書の教える天地創造の神「ヤハウエ」に他ならないのであるが、諏訪大社はモリヤの神を祭る為に創造された神社である。

 これらの「一ツ物神事」が我国に残されている事はいったい何を意味しているのであろうか。
 そのことは我が国の国家文明、文化が大陸のはるか西の彼方からシルクロードを伝って私達が思っているよりもはるか以前に、もっと強烈な群像がこの日本に東を目指して来ていたと言える。
 この文明文化の流れの中に祇園祭というものが有るとするならば、私達の国の祭をもっと大きく考えるならば、私達の国家とはいったい何を引きずっている国なのであろうか。ある意味においては一つの国家論として与党、野党などという政治的な国家論ではなくなるかもしれない。又、日本民族はある意味において覚悟を決める時期が来ると思う。それは同じ間違いをくりかえさないという覚悟である。

 日本の祭りは日本の国家と民族の歩み、つまり歴史そのものであって、それは決して「三全総」がらみのイベント行事などではない。イベントと民俗行事を区別しなければいけない。
 祭礼の目的は他人に観せる為に行うものではないからである。そして、その神社という物と、そこに以前からあった信仰心とは人間の生活感の中でいったい何であるのかを考えて見る事であろう。イベント的観光行事性の中には個人の権力性や安易な思想感がかならず入っていて、その中の誰かがかならずその背景を利用して「良い顔」をするだけの思想感を持った欲の人間がでてくる。これは神事としての民俗行事には本来あってはならないことである。祭礼の主役はこの一つ物と言う神である。そして庶民はこの神に身をそれぞれの立場で「ゆだねる」ことにつきる。
「祭りにおいて、神はあくまでも畏怖すべき存在として立ち現れるが故に、『神』とされる。昨今、至る所で『まつり』と銘打ったイベントが行われていますが、そこに神が存在し、その神を奉っていない限り、『祭り』と呼ぶには値しないということに、それはなります」と、神社の宮司達は心の底では訴え願っている。
祭りとは古い時代からのことであり、失われた祭礼の中のものを復活、もしくは復元する事は非常に正しいが、信仰理念や本質にそぐわない新しい感覚的発想物を持ち込むことは正しくはない事である。それは祭りというものがイベントではないからだ。イベントと祭りは顔形は似ているが本質的筋違いはダメだという事であろう。
 ところで一ツ物はなぜ「男の子」なのか?
「祭り」の世界は「ザ・マンダムで偉大なマンネリズム」でなければならないと、ある「祭人」が言っていた。どうしても女性が参加しなければならない状態になったら、女性が「男支度」で「男髷」姿の手古舞が祭りの中に表われてもいる。「一ツ物」=「男の子」の持つ理念的意味が持っている物は祭りの中にはケガレの思想という非常に深い祭礼の理念性本質があるので女性の参加は感情的理念でむずかしいと言えて、カムフラージュが必要なのだ。

 古来日本では、生理(月経)中の女性は、神事に参加してはならなかったとされ、たとえば「延喜式(えんぎしき)」には、「汚れ」に触れて神事にたずさわってはいけない、忌みの日数を定めている。
 こうした宗教的な「汚れの観念」は、現在の人々からすれば「古いしきたり」で、不合理であるかもしれないが、古代から女性の体の為に考えられた事で「血の清めの為に忌る」という「静養」の必要性を表した感念でもあったと言える。
 現在の日本人の多くは、こうした風習を知らないし、経験したこともない。しかし、この風習(しきたり)は、明治初期に廃止されたが、それまでは日本全国で見られたことなのである。
 この理念的な観念が、古代から日本文明の中にあったので祭りの世界は「男性」でなくてはならなかったのである。今も、この「男性観念」を守っている祭礼は多い。
 最近、女性の祭礼への参加が目立って来ている。これはある意味においては時代の流れの風情でもあろうが、このレベルの格差は意識の格差でもある。
 これは、イベント的「思考感」の「指向的」な「試行」という三つの「しこう」が見られる中で「男女同権」的な同情で、女性の進出が「ゆるされ」て来たとも言える。
 現在においても、「民俗行事」は「古くから有る物」であるから、その内容の理念や観念は、それにそったものでなければならないし、それは「そういうもの」である事を、今の時代性に合わなくても、それを理解せねばならないところでもある。ただし、女性の参加はイベントまつりなら別であるが、祭りであればその祭礼の伝統が切れる事を意味する。
 男性のボランティアによる「特別出入り許可」で凌ぐこともできるのであるが…。

・日 本 文 化 の 根 幹
   「月夜の音色」


                                                 小坂部 雅利 

 祭りとはその土地に暮らす家族の団欒的絆、地域の親睦に営み続ける氏子としての根源があり、年に一度の楽しい神との信仰的交わりの日でなければなりません。しかし今、観光行事性のイベント化が見られている中で、祭りとしての「信仰的本質の真意」とは何であったのか、見つめ直す時期が訪れているようです。今「川越まつりや高山祭り、越中富山八尾の風の盆などの伝統行事」が「異様な光景だ」と囁かれています。
 以前、京都祇園祭で、通訳を同伴して、日本に留学しているイスラエル人女性、エリナ・ハシブさんにお会いする機会が有りました。そこで彼女に言われた言葉は「日本程、安全な国はない。そして日本程、世界中の異宗教が存在している国は珍しい事で、又、自分の国の歴史的伝統と、国民性の民俗行事を大切にしない無関心な国民性も珍しい」と。そして、「私達に観せる為の作り上げられた興行的まつり(イベント化)は観たくないワ、私達が観たいのは、自然の中に有る本物が観たいのです。昨年祇園祭を拝見して二度目ですが、そこに存在する山鉾を目の前に観た時、身体全体が身震いし、両手を山鉾に向け差し上げ心の中で叫んでしまいました。『オオッ!我が文化ヨ!!』と」、そして涙があふれて止まらなかったそうです。
 彼女が涙の出る程感動したのは「我が神、ユダヤの偉大な事を東の遠い国、日本で改めて知った」と言うのです。この言葉を聞いて私はビックリしました。
 この話しを聞いてから私は「今、日本人は毎日の生活に追われていて、思想、宗教の自由に走りすぎ、古い「国の伝統」や「民族的な誇り」や「アイデンティティー」を持つ事さえも忘れているのでは」と思ってしまいました。
 日本の古文書「新撰姓氏録」によると、仲哀天皇の時代に、「弓月」国の王「巧満」が日本の朝廷を公式訪問したとあります。さらに、応神天皇の時代に、先の巧満王の子「弓月ノ君」が大集団を率いて日本に渡来したとあります。(3世紀後期〜4世紀前期)その数何と1万8670人でした。当時からすればちょっとした民族大移動です。彼らの大半は養蚕と絹織物業に携わっていました。彼らがいわゆる「秦氏」です。この秦氏がその技術を持っていたから「機織り」という言葉が使われるようになったのです。京都の西陣織りも秦氏が始めたものです。平安京の造成には首長秦河勝(はたかわかつ)を中心とする一族の活躍が極めて大きいのですが、この秦一族、いったいどこから来たのでしょう。実は中国人が「弓月」と呼んだ中央アジアの一小国からシルクロードを東にたどって最終的に日本にたどりついた一族なのです。この弓月国(中国語ではクンシエと発音)は、現在の中国の西端の外側、バルハシ湖の南イリ川付近にあった国で651年〜655年ごろに滅亡しています。それは秦始皇帝が築き始めた「万里の長城」の向側の地域にありましたが、元々はアッシリアの地に居た遊牧民の人々でそこから東方世界へ広がった民族であったとされ、彼らは東方基督教徒つまり原始基督教徒と同じ流れに属する人々でした。日本に渡来したその秦氏の人々は、日本の歴史文化に非常に大きな影響を残しています。
 ここで秦一族の信仰と広隆寺に付いて述べますと、彼らは高度な技術力を持ち、古代の日本の産業や土木、外交などにおいて中心的な役割を果たしましたが、この秦氏と関連のあるお寺に、京都太秦映画村で有名な太秦(うずまさ)の地にある「広隆寺」がありますが、スペインのカトリック宣教師にマリオ・マレガ神父という人がいます。彼はザビエル以前の日本にすでに基督教が入っていたことを認めて、それを研究した人でした。1952年の東方学会で歴史学の教授達にその日本研究の論文を発していて、彼によると、秦氏の首長秦河勝によって、603年に建設が始められ、622年に完成した寺はもとは仏教の寺でなく、古代基督教の教会であったそうです。しかし818年に消失した為に、そこから数キロの現在地に再建され、現在は仏教の寺となっています。当初の建設の消失前の教会には窓が無く大きな入口が一つだけある非常にシンプルな構造であって、黒い十字架が一つ付いていただけであったとされています。 それは現在は仏教の広隆寺という寺になっておりますが、その当初の建設当時の面影は残っておりません。
 この広隆寺には国宝第一号の弥勒菩薩像(半跏思惟像)がありまして、私が一番好きな「永遠の微笑」をたたえていて下さるその仏像は、右手を上げてその手の親指の先と他の指一本とを合わせて三角形を作っております。実はこのスタイルと同じ物が大陸の景教の遺跡の中に見られるのです。
 1906年に中国西部「敦煌」で発見され、景教の大主教を描いた壁画が発見され、その大主教は右手の親指の先と他の指一本とを付けて三角形を作り、残りの三本の指を伸ばしていました。それは広隆寺の弥勒菩薩と同じスタイルだったのですが、実はこの右手の形の三角形と伸ばした三本の指とで、景教徒達の三位一体信仰、すなわち、父なる神、キリスト、聖霊の一体性を表す二重の象徴であるとされています。
 このように広隆寺の前進が景教の教会であるとするならば日本の宗教文化について根底から見つめ直す必要があるかもしれません。又、京都の祇園祭は全国の曳山祭りの原点ともいわれておりますが、その中にいくつかの不思議な側面を見つけることができます。
 まず第一には祇園祭の山鉾には、16世紀にペルシア、インドの西アジアなどからのモチーフが描かれ織られたタペストリーがベルギーで織られシルクロードを伝来して来たとされる重要文化財の絨毯が装飾に使われており、その図柄は西アジアの文化そのものであると言え、日本の祭りの原点である京の祇園祭になぜ西アジア、すなわち基督教東方世界のにおいのする物が使われている事実に深く疑問を禁じ得ません。
この祇園祭は平安遷都後に始まり、この平安京造営に貢献した秦氏一族は領地を委託したとされています。もし、この祭りがその影響を大きく受けていると考えられるならば、「京都の祇園祭も、大文字山の火祭りも、私達の宗派も元は基督教です」ときっぱりと言う真言宗の僧侶がいる事もうなずける事実なのです。
 太古の時代から現代の時代まで我国には四季という自然感が有りますが、その季節感は世界的にみて、素晴らしい感覚を私達民族に与えてくれました。それは「美」への感覚的感性であって、それは美術や工芸、音楽などへも大きな影響を表わしているとされています。その中で「音」に付いて考えますと、人間が生活感の中で一番求めているのは安らぎのある音かと思いますが、それは好きな音楽のジャンルによって精神が安定することだと思います。しかし、人間は好きな音楽だけではダメで、その音に相った醸し出す風情がなければだめであろうかと考えますが、しかるにその音楽性の持っている音とテンポの二面性は日本独特の感情的な量感をも生み出す自然性の中から生まれた色合いとも考えられます。 又、音にはかならず、その場面性があり、それは人間の育成には大きな意味を持っていると考えます。
 私は日本に古くから国家の成り立ちと共に存在するとされる民俗行事としての祭りに付いて研究会を立ち上げて、その祭りの文化性に付いて仲間の方々と研究を行っています。私は川越生まれの川越育ちですが、川越祭りの中で一番好きな音の場面は、晴れている日の夕方から夜にかけて、夜空に光る月夜の中、時の鐘の風景の中に祭り囃子が響き渡る時です。その時の月夜の風情の中での山車から奏で出る音色はいかにも神と共感しているようで何とも不思議な気持ちが胸に込み上がってきます。そして、一瞬囃子の音以外のザワメキが消える時が有ります。それって、もしかしたら神という物を感じている時なのかもしれません。日本の神とは固定的ではなく、自然性に感じる(呼び出す)物です。
 祭りの本質は宵山の日に夕方から一中夜かけて、神様を迎える「神降ろし」の神事から始まります。それが「月待ち」の意味で、その後、翌日の朝を迎える事に対する意味が「日待ち」とされています。そこには宵山の夕方から朝のハレの日を迎えるという中に二つの理念性があって、「月待神」と「日待神」の二面性の感念が存在しているとされています、日待ちを迎えたハレの日に山車(曳山)の巡行的曳行行事が行われるのです。
 昔は一日の始まりは夕方から始まるとされておりましたから、夜に関して言えば神秘性のあるロマンチックな物語が多く残っていますし、先にふれた太秦から程近い桂川のそばにやはり彼ら秦一族が創設したとされる酒造の神様を祀る松尾大社があります。そこから程近い所に月読神を祀る小さな神社があります。歴史は古く日本書紀には487年(顕宗天皇3年)任那(みまな)へ遣わされた阿閉臣事代(あべのおおことしろ)が月読神のお告げを得て祭祀したと伝えています。
 ここで私達が古代の祭りを想像するとすれば、アイヌのイヨマンテ(熊の祭)の祭りのように非常に原始的で素朴な火を囲んで行う祭りを思い浮かべると思います。そしてそれを思い表わす風情としては満月の夜に岩山の上でオオカミの遠吠えが山奥深い谷間に響き渡って、単調な古代の太鼓の音がコタンの夜に響きます。これが私達が歴史学から想像できる所の一番古い祭りの風景的風情かと思います。そして彼らアイヌの領地である阿寒湖には天然記念物の毬藻(マリモ)があってそれは彼らに取ってとても神秘的な物でもあります。これは自然の全ての物に神が宿るという縄文人的な最も古い祭りの場面を表したものですが、その後に弥生文化において我国に大陸から帰化した民族が持ち込んだ祭り理念とミックスしたと考えた場合、古代から祭りの中にある音の音色的音響を考えて大陸との共通性を見ると、音階には和聲性音階と旋律的音階との二つあって、和聲性関係に基づいて導き出されたものとして、協和ということが音階構成の基礎になっています。それは近代西洋音階、支那音階、我が国の雅楽音階なども音階的にはこれに属します。又これと同じ音階を作り上げた物は古代ギリシアの音階で、ローマ及び中世のキリスト教音階はそれを用いているとされています。このような音階の流れにおいてもシルクロードの線上にそれはあって、このギリシア音階の組み立てに初めて数理的に研究したのはピタゴラスであるということです。
 これらの大陸から来た文化は、現在の時代においても文化の中にこの流れは続いていて、祭礼の山車の幕などの新調、修復は秦氏の残した西陣の中で川島織物、瀧村美術織物などが脈々と日本の文化を支えておられて、一言でいえばそれは「文化を織る」という重要で大変な文化産業をされて今に伝えています。
 又、古代において八幡神社や稲荷神社の創設は秦氏であるとされていて、それを思えば八坂神社の祭礼として始まった祇園祭からしてそれを曳山文化と考えれば、けっしてその始まりは江戸時代などではないと言え、祭りに参加する標山(曳山・山車の意)という練物が江戸時代に風流という流れの中で進化しただけのことであって、それは神社の歴史からすれば一つの通過点にすぎないことでもあります。川越の氷川神社の創設の歴史を見ても、古事記・日本書紀・出雲大社よりも古い訳ですから…。
 ここで一冊の本を思い出します。京都恵美須神社中川久公宮司著「宮司が語る京都の魅力」です。そこにはいみじくも、「祭りにおいて、神はあくまでも畏怖すべき存在として立ち現われるが故に、『神』とされる。昨今、至る所で『まつり』と銘打ったイベントが行われていますが、そこに神が存在し、その神を奉っていない限り、『祭り』と呼ぶには値しないということに、それはなります」と、記されています。
 最後に私達の研究会は一見、反時代的にも思える頑なさで、祭りのシキタリを重んじ、習慣に固執する理由は、「唯一、権力から手付かずで残った公的行事が祭礼であったといえる文化的歴史」が有るからで、これは我国の憲法第20条で保護されています。まさに研究会の活動真意はそこにあります。昨年京都の祇園祭はイベント化的「まつり」にピリオドを打ち、今から50年前の元の形態に戻しました。神が根底の中心に有るからです。
以上の内容関係から、「日本祭りシンポジウム」のお手伝いをさせて頂いておりますが「振り向けば未来、本当の文化残す努力を」という言葉がシンポジウムの中にありますが、日本全国において、民意の力で色々な団体が郷土文化の為に正しい活動される事を望みます。
 
祭りのルーツを探る
工事中


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