倭国曳山行事
祭り文化研究会
「 祭り文化研究会 新春座談会 」
     新 春 座 談 会 2016


司会  

皆さん明けましてお目出とうございます。本年も宜しくお願いを申し上げます。
さて、今年の新春座談会は昨年の祭り文化研究会の活動から見たこれからの祭り文化の道筋に付いて話し合って頂けましたらと思いますが、どなたか新年の口火を切って頂きたいと思いますが。


A氏  

明けましてお目出とうございます。今年も昨年同様に皆さん方と共に楽しく祭り研究をさせて頂きたいと思っております。昨年一年間を思い出して見ますと私なりに思う事が有ります。それは付け祭りは枝葉のことではありますけれどこの祭り文化の継承というその奥にある事です。毎年活動をさせて頂く中で年々増々このことが私の中では重要な課題になっていく様に感じております。


B氏  

私も同感です。ただ伝えるだけではなく何をどの様に正しく伝えるかが課題であろうかと思います。


C氏  

現在我国の祭礼文化においては色々な問題をかかえていると考えます。又、それは細かな所では地域によっては違う事もありますが全国共通の問題点もいくつかある様に思えます。


D氏  

いつも毎回同じ所へ話しが行って申し訳ありませんが日本の祭りは観光的施行感が付け祭りに染まって来ているという事が大きな問題かと思っております。その流れは本当の民俗行事の有るべき姿から単なるイベント行事へと目的と意味が違う無形文化を生み出している事です。


E氏  

それは非常に理解が困難な状況に有ると言えます。


B氏  

だが、誰かがやらなければならないでしょうネ。その路付けの方法を考えないといけない所まで来ていると思いますけれどネ。


司会  

現実にはどのような事なのでしょうか。


A氏  

たとえば祭りだけではなくて、世界遺産登録となるとすぐに観光に結び付ける有様を見ているとその指定の価値観の値打ちが薄れるような気がします。富岡製糸場などもそれまでその歴史的価値に付いて地元の人達はあまり意識していなかった所へ目覚めるような世界遺産登録となり、すぐさま観光云々になってしまった。地元の人達に言いたいのは、そのレッテルが有るかぎり、その遺産を富岡で維持していかなければ何の意味もないと言う事なのですが、意識が別の方へ行っている様に思います。


司会  

価値観の意識の違いですネ。


E氏  

そうです。政府が方針として出したものがその物の価値観さえも変えてしまうという現象です。


B氏  

行政のやる事は全て、各管轄が仕事としてデスクワーク(給料を取って)で行っている範囲であることです。本当の祭りとはデスクワークなんかで行うものではありません。その安全な舞台だけ保護することが仕事なのですが。


E氏  

それを必要以上にどんな形にしろその中に立場を越えて主導的関与をしてくるというのは憲法20条違反になるはずです。神社が中心に関係している以上はです。そこに有るのは、現状の政治国家ではなくて、太古の昔から行われてきた別の次元の物が、私達の国には、存在しているということです。


B氏  

祭りの字をひらがなの「まつり」にしていることも同じ事が言えます。


C氏  

祭りの字を漢字からひらがなにカムフラージュすると言う事はそもそもその時点で憲法違反的な過ちを犯していると言う事なのですが…。


D氏  

政府行政という所はつごう良く憲法をねじまげるのがおとくいですから。


A氏  

その原因も大きくありますが、とにかく、戦後において、生活間の中に有った祭りという物を正しく受け入れないで今日まで来てしまった事につきますネ。その本質をもう少し正しく理解して取り入れて守るべきであったと思いますし、とにかく形式論的な物事だけで今日まで来てしまった事に大きな心の痛みさえもおぼえます。


B氏  

そうですネ、あらゆる面で少しずつ変化をして来てしまったと思いますが、全国的に神社に対する本来の信仰心が無くなって来てしまった事にもそれは平行して感じますネ。


C氏  

そうなんです。祭りという本質と理屈という物事の筋道が分からずに祭りを行う悪い循環ですかネ。


E氏  

この件に付きましてはまったく現場がどの様になろうが文化庁さんあたりは気が付いていない、と思います。無形文化財の指定とは何なのか良く価値観的には分からん範囲の所がありますネ。一般的には。


A氏  

今世間で私達が取り組んでいる活動に対して何らかの意見があるとすればそれは憲法20条まで深く理解していない世論的な立場の意見かと思いますが…。私達の方がよっぽど憲法を尊重して行っている訳ですから。


C氏  

祭りを行う組織に付いてもそれを守ってもらいたいですナ。


E氏  

今やその民俗行事が大きく崩れて来ている事ですらも気付かずに楽しいまつりをイベント的にエンジョイしている人が80%ぐらいかもしれません。祭礼の主権者は神であり神社ですから、行政ではありません。


D氏  

昭和52年の政府方針「三全総」から約40年近くになりますが、今やこの状態が祭りであるかのように思わされて今、まつりを行っている状態かと思いますが。何ともはや…。


司会  

先程神に対する信仰心に付いても話しが出ましたがそのへんに付きまして何方かご意見が有れば。


A氏  

信仰心と言えば最近はマンションやアパート住まいの方々が増えておりますが、その方々の生活間の中に「神棚」が設置されなくなっていると聞きました。神棚は人間にとって一番身近な神様の存在なのですが。若い世代には「天照皇大神宮」の神宮大麻のお札の力が無くなって来たのかナァ。


E氏  

神社側の仕事を支える氏子役員の活動も昔ほど活発ではありませんネェ、今は。


司会  

そう言えば静かですネ。神社関係の伝達がほとんど来なくなりましたネ、私の町は。


D氏  

私の友人の地区では行政ラインの自治会組織が全て幅を広げて行っていて昔有った氏子組織は無くなったようです。そして、昔祭りの中に有った「年行事制」とか「シキタリ」も祭りの儀式性の中から消えて行ってしまっているそうで、それは時代の変化の中で合理性ばかり求めて来た結果の現われであるとおもいます。


C氏  

それぞれの祭礼地区、特に国指定地区にはその祭り行事の保護の保存会なる組織が設置されておりますが、今言ったような古い色々な形態様式の中が消えて行っても復活すらできないと言うか、その組織が機能しないと言うか、そう言う現状もあります。


A氏  

私達が観て来た祭りの中には本当に現代にこの様な素晴らしい祭りがあったのかと教えてくれる祭りもまだ地方に行くと沢山残っています。その素晴らしいと感じさせてくれる物は決して人が多く出る人数などではありません。規模が大きいとか、中に有る物が立派であるとか、祭り範囲が広いとかではありません。何が本質の祭りなのか、そこの所が分からないかぎり本当の祭へ修復するのはむずかしいでしょう。


B氏  

我が国の祭りには必ず「夜を迎えて、朝を待つ」という月神と日神を迎える法則的な理念的感念が基本的にありますからそれを忘れないで頂きたいですね。その奥に祭りを起こす「ケガレ」と「ケ」が有るとされていますので。


E氏  

その事の意味も知らないでただ山車をガラガラ祭りごっこ的に見せ物的な気持で曳いている人が多い事も事実です。全国的に神事的要素を教える事が出来ないのが最大の問題点でも有りましょうし、ある地方の地区では脇役的な立場の協賛会から感謝状を神社の宮司に出したという信じられない事も起こっています。又、三重県桑名では祭礼形態が崩れて来た為に神社の宮司さんが憤りと嘆きから、その年の祭礼の神下しを取り止めたと聞いています。この宮司さんは本当に気骨がお有りになる宮司さんだと思います。


B氏  

日本の宮司さんたちは少し大人しすぎます。自分達の祭祀のことなのですから、はっきりと物を申した方が良いと思うのですが。祭りに対しては上位で。


D氏  

そうですねェ、日本の祭りには儀式性という決め事が大前提にありますから、その大前提によって決められた手順を節度を持ってして昔と同じ事をくりかえし行うというマンネリズムが祭りであって、その中心に神という感念が存在しているのが祭りであって、それがその地域における信仰心でもあって、その事がその地域の住民(氏子)と神との間に無条件で交わされた物事への成立に対する欠く事のできない条件的な制約の誓約という「きずな」が信仰心として成立されているという事のはずなのですがネ。


司会  

貴重なご意見を頂きましたがその制約というのはどのような事なのですか。


D氏  

それは人間とは非常に弱いものですし、弱いものにすぎませんから「たよる」という感念から「スガルもの」とか「戒めるもの」という神への感念があって日本では春夏秋冬感や生活間の中にそれぞれの季節感の意味を持った神が祭りの場に天から下ろされて来るのです。


B氏  

その感覚、解かるかナァ、解かんねえだろうナァ。


E氏  

でも、解かる人には解かるんです。不思議なんです。


A氏  

それは神というものを頭の中で組み立てられるかどうかの差であると思います。


C氏  

その組み立てられると言うことは今自分の目の前にある物に付いて疑問を持つことです。たとえば、「なぜ神社が有るのか」とか、「なぜ山車という物があのような構造であるのか」又、「なぜ山車の上にあのような飾物が付いているのか」とか色々な疑問を持つことです。目の前の物全てが、あたりまえにしか見えて来ない人には何も分かりません。だから分かる人にだけ見えて来る物が、神その物が関係する範囲、つまり神の領域が心で見えてくるのです。


E氏  

このことは祭りという物を勉強しようとする時の一つの方法でもありますが、付け祭りの世界だけチャンチャカ、チャンチャカやっている人はダメですね。若い世代の人達に申し上げたいのは「祭りという場は何が目的で何を行う所なのか」良く考えてもらいたいですネ。


司会  

それが分かった上での人生の燃焼でもある訳ですネ。


E氏  

そうです、だから祭りとは奥の深い尊い物なのだと思います。


A氏  

これからは祭礼の流れは見る側と行う側の二面性を持って未来へ行くと思いますから、それぞれの立場の正しい意味付けを明確にして行かないといけない所まで現在は来ていますね。又祭礼を行う側に付いてはその祭りのいったいいつ頃の祭礼の姿に戻すのか歴史を良く把握して復活して頂きたいですネ。


B氏  

その歴史なんですが、日本史を見て思うのですが少なくとも明治時代までは遡らないと本当の祭礼にはならないでしょうネ。

C氏  

それから祭礼を色付ける為の町並の背景の問題もありますネ。時代の流れで情景がどんどん変わって来ていますから、人が住んでいる事なので大変難しいことなのですが、この問題は都会であればある程感じますし、名古屋市内の祭礼がその一例かと思います。ビルと高速道路の下を山車が通る姿は何とも言えないアンバランス感を強く感じました。ただ一つの救いは地元の皆さんがその地元の山車祭りを非常に楽しみにして生活をなさっていて、ビル街である所はそれなりにきちんと祭礼らしい飾り付けを入口にしておられて努力をされている姿を見させて頂き、なんとなく「ホッ」とした気持ちにさせられたのを思い出します。


E氏  

それは良い所を見られましたネ。神社の祭りとは今の話しで、人が世の中で何を求めているのか良く分ります。又その時代の近代化の中で精一杯神社の祭礼という事に目を向けて努力をされて過ごされている。これぞ信仰と言えるでしょう。


B氏  

祭りの飾り付けは神を迎え、神さんを歓待する住民の所作の意味がございますからね。日本人として大切な物を失ってはいけないのだと思いますネ。


司会  

そう言った物の見方や、考え方の勉強的な見学研修を若い人達に教えないといけないと思いますネ。今その役目をするリーダーがいない事も事実です。


A氏  

今居るリーダーは人を連れて行って自分が良い顔をする人が多いので若い人は付いていかなくなります。


C氏  

又若い人は、それを見て猿まねをしますから意識的にネ。


D氏  

そうですね、私は若い頃に祭りが好きでしたからある方に付いて祭礼の世界に入りましたが、ある時その方が単なるその世界の権力者であるのに気が付きまして、そのことでひどい目に周りから合いました。人選びの失敗でした。ですから誰が、「どの立場」で、「どの次元」で、「何を目的」に話す人なのか見極めないといけないです。


司会  

本当に人を見極めて選ぶという事は大事な事ですネ、自分の人生を左右しますから。


A氏  

「祭礼を学ぶ」と言う事は、教えると言うことよりも自分で考えると言う事も大切です。教えるのは正しい基本だけです。


E氏  

実は最近私の身近に40代半ばの方がおりまして、その方は今までの人生で祭りにまったく無縁の方でしたが、祭りと言えば人ごみの中、遠くに太鼓の音を聞き、子供とテキヤさんの屋台でタコ焼きとか綿アメなどを楽しんで家に帰るレベルの人でまったく祭りの文化性の見方が無かった人でしたが、私と接する機会が多くなったので、彼に祭り文化論の古代史や民俗学、世界史との比較文化論の話しをしましたら、「非常におもしろい」と言い出しまして、昨年京都の祇園祭へ同伴しまして、大船鉾と後祭り復活の場面を見て来まして、鉾の歴史的意味や今日までの京の都の文化論を説明してあげたのですが、彼曰く「本当に我が国の文化はスゴイ!」、鉾を目の前に見上げてその鉾の偉大さに感動、感激で目からウロコというように、この祇園祭は一生の楽しい思い出になったようでした。


司会  

彼はEさんによって祭り文化に目覚めたという事ですネ。人間にはそういう出会いが必要ですネ。


B氏  

少し話しは変わりますが宗教のマインドコントロールと言うのがありますが、人間が作った思想には必ず「妬みと欲」が有ります。それはその思想のズレから起こると考えられ、そのあげく「幸せとは何か」という事を失って行くと言われています。ですから、正しい行く末の見方が出来ないといけないと思うのですが。


C氏  

これは世界的に言えることであると思いますが、人類、正しい道を歩んで行ってほしいです。


司会  

これからは若い世代にどのように取り組んで行くかが大きな課題であろうかとあらためて認識した時間でしたが、ここで昨年、当会は創設15周年を迎えさせて頂きました。大阪、京都、犬山など遠方の方々もご参加頂き関東地区の祭礼文化の研究者達と和やかに又非常にレベルの高い集いを東京神田に有る、学士会館で行いました。この集いの会談で次のステップとなる内容も話し合われ今年も当研究会は全国の方々と手を結んで活動させて頂きたいと願っております。ところで、今年は「申」年です。埼玉県川越市の山車に「山王」車がありますが申の面を持っております。又、滋賀県大津の山王日枝神社には「さる」が飼われておりますから、山王社では「さる」は神のつかいなのだと思います。今年は「申まね」だけは止めましょう。本日はどうも有りがとうございました。

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