倭国曳山行事
祭り文化研究会
「 祭り文化研究会 新春座談会 」
     新 春 座 談 会 2018


司会  明けましてお目出とう御座います。本年も宜しくお願い申し上げます。昨年は「祭りの原点」に付いてお話しをして頂きましたが、今年は「祭りの心」に付いて皆様方にお話しをして頂きたいと思っております。

A氏  七年前の大震災で「ふる里」を離れた人、ふる里に残った人それぞれの人達はあの時に人間の人生を悟ったのではなかろうかと思います。「悟る」という言葉は仏教用語で人生の末期において「あの人は悟った」とかいう話しを耳にしますが震災に合われた方々は生きているうちに悟ったのではないかと覆います。いずれにしろ、ふる里に残っても、去っても大変な人生ではなかろうかと思います。悟る事は心の思いであり戒めであります。その辺の事は昔の人達は神社を建造する時に同じあやまちを「繰り反さない」という知恵であったかと考えられます。これは未来の子孫達に対する「善」の心かと思います。ですから「悟」とは経験からくる戒めであると思います。そしてそれは「自戒の欲」を捨て助け合って生きて行く事に心を持たされるのではなかろうかと思うのですが。

B氏  人生は無常です。とても無常です。亡くなられた方々は無常といういたしかたがない物であろうかと思いますが、生きて行く人も又、無常感を持って生きなければならないと思っています。そしてその無常心を振り払う為に「ケ・ケガレ・ハレ」と言う神事が我国には存在しているとされているのです。祭りとはイベントなどではなくとても尊い物なのです。

C氏  祭りとは古代の人達が考え出した戒めへの知恵なのでしょう。

A氏  そうです。理論的にはそうなります。ですから仏教理念が神道理念の中に何かの心に持つべき中に含まれていると私は思っています。

D氏  今の話しをうかがって思う事は、祭礼の場に降りた神が何の為に天から下りられたのか考えて見ますと、祭礼の場で頂く御神酒は「悟りの酒」とでもなりますかネ。

E氏  ですから、地縁や粋と言う形。つまり生きている人々にとってその酒はとても尊い御神酒なのです。今の人達は祭りだからタダ酒が飲めれば良い!、くらいに思っていますが、もっと日本文化の奥に有る意味を理解して知ってもらいたいです。

司会  ここで御神酒が出た所で曳山に付いて何か話しがありますか。

B氏  私は愛知の地方の人間ですからこういう事を申し上げる事が出来るのかもしれませんが、元々山車と言う物は構造的に神様がお移りになる祭具の一つです。ですから山車の前面の唐破風(切妻の屋根)の部分は神様に捧げ上げる場所として造られており一般の人間が乗る所ではありません。そこは前台と言いまして神を表す鏡や幣束を飾り立てその前で神官がお払いをされる意味の有る場所です。そこに人が乗るとすればその前台の後方の四角い幕で覆った部分に鎮座されている神に対して前台において囃子や舞、からくり人形などを神様に対して歓待する物、つまり奉納する物が乗る部分を意味しています。ですから曳山を曳くという事は神様が乗り移られた「かたまりの物」を氏子として曳き上げ奉る事なのです。それは日本文化の祭礼行事であるからです。これは正しい意味を説明し「心」の持ち方一つでイベントから正しい方向へ移行できると言う事です。

司会  大変良いお話しをうかがいました。根本的にイベントまつりを行う神社と行政が関係あるのかどうか考える事ですね。行政の立場は補填助成をするだけの立場のはずでしたから。

A氏  「だまって補填助成だけすれば良い」これに尽きます。その立場の心を持ってもらいたい。

E氏  現在の自治権が世の中に現われたのは明治になってからです。中央集権国家です。それまで、江戸時代までは民衆が自分達の自主性を持ってその住む町を束ねて来たわけです。それが町の顔役であったり年行事や鳶の頭達だった人達であったとされています。その民衆の組織は祭りの氏子衆の形態性で住民同士が助け合い住む所の自主性と秩序を持っていたとされていて、それが今日の日本文化の根本的土台になっているとされています。ですから我国においては他国とは違い暴動が起きたりしない秩序を守る習慣が具わっている民族なのです。ですから祭りは神を中心に地域の民衆達が「おたがいの心」をたしかめ合う粋の場でもあったわけです。それが氏子と言う事なのです。行政に縛られた自治会組織とは違う自由な自主性のものであるのです。

E氏  そこには今私達が忘れている大切な心の人間性の温もりが有ったはずです。それが人間社会における祭りの根本です。私には観光などと言う二面性は考えられません。祭りの本質から離脱して行くだけです。心が違います。見物人は勝手に見に来られるだけの事です。

B氏  そんなに曳山を見せたいのであれば半田市のように別の日を作ってイベント山車まつりを行えば良い。祭礼とは区別することです。地区の活性とは自主精神から生まれるものです。自主の知恵がなさすぎます、今の日本人には。

D氏  それは私もよく耳にします。今、全国の市政運営にイエスマンばかり側近におく傾向が見られて、本当に必要な情報が入ってこない。

司会  これは心があっても圧力で違う方向へと向いてしまう事ですね。

B氏  今回の「祭りの心」と言う題については、祭りの中にある無形の部分かと思いますが、それは私達の目には見えない物、耳には聞こえない祭りを動かしているエネルギー的な欲上的な部分かと思います。

司会  今Bさんが言われた欲上的な部分で何か問題視される事が有りましたらお話しを願います。

E氏  人間には欲と言う物が心に潜んでいます。よく見かける光景なのですが、祭礼交流だと申しまして行政観光課あたりの関係者をつれて、地方の祭礼へゾロゾロとノシ歩いているある都市の祭礼関係者をよく見かけます。どう見てもその姿は「私達と一緒に観光の為に祭りをやっていきましょう!」としか思えない交流の仕方です。

D氏  それって、「私は力が有って行政を連れて来た!」としか見えない姿ですネ。私も見た事が有ります。

C氏  この交流の仕方はどう見ても「観光の為に『まつり』をやって行きましょう」としか見えません。相手方も同じレベルならばそれでも良いと思いますが…。

F氏  一体何を交流で話し合って来るのでしょうか?

司会  観光儀礼の世界ですからそれなりの話しの交流だと思いますヨ。

E氏  そういう人が残念ですが多いです。これは自我の欲です。格好よく祭礼の世界を利用して一生を終わって行く人です。これは全く自我です。自我の欲です。

F氏  この自我の欲には売名行為と損得などの欲心的な浅はかな心を持った人が多くなったと思います。

E氏  世間の人達はそれをちゃ~んと見ていますからネ。又、相手方からそのレベルを試されている訳です。これが分らないとチョットねェ。

司会  本当ですね、世間はこわいでス。

A氏  本当の交流は相手の祭りを良く勉強してから見せて頂く。そして「ヒザ」を交えて本音の話しが出来ないといけないと思いますネ。

B氏  その通りです。祭りとは「ニシメと助け合い」の心の場。智恵と知識という生きる為の場。あらゆる権力と個人的欲の場ではない。祭礼の中心にいる神は権力も欲も持ってはいない。祭礼文化交流も同じ。

司会  そこで、祭礼の活性化問題に付いては何かありますか。

C氏  私はいつも思うのですが、どうして経済的な商工観光と言う物が神社と氏子の世界に入り込んで来なければならなくなったのか、三全総から40年、本当に祭礼と言う物をこういう形で活性化イベントを行って来た事について日本の文化行事を考えた時に、「もう考える時期に来ている」と思うのですが、これ以上40年前のイベント活性化が祭りに本当に必要なのかどうか。

D氏  祭礼を活性化やイベント化してくると資金が多額にかかって来ます。曳山の修理だけではなくなってきます。その事はポスターや人に見せる為の色々な物事に資金が必要になってきますがその協賛会の資金や助成金は私達の税金です。日本の全ての祭りがこの流れではありませんが都市の名を冠した祭はだいたいこの内容で派手に行う事により本質的目的が違う方向を持って違う文化性を高めて行ってきていますからこの本質とそうではない二面性が本当に必要なのかどうか。

A氏  昭和52年の政府スローガンの古い本質のまま未だに行っている。本当に日本の祭りはこれで良いのかと思ってしまいます。

E氏  今都市の祭りと言われましたけれど日本の祭りは、その都市の祭りではありませんから、その都市の中にある神社の例大祭なのですから。ポスターの名も都市の名と祭りと言う字の間に「ノ」を入れるべきです。例えば、高山祭りではなく高山ノ曳山祭りとか川越祭りではなく川越ノ氷川山車行事とか。

B氏  最低このくらいの努力をしていかないとイベントと祭礼行事の区別ができなくなってきています。

司会  これは全国の都市名まつりを行っている関係機関や関係者には努力をして頂きたい所ですネ。そこで、これからの祭りに必要な物は何でしょうか。

D氏  祭りの中に「善意」と言う心からくる物が有ります。この善意については行う差し向ける側と受け取る側が存在します。それは心から来る物だからです。これからお話しをする内容は祭礼の中にも善意が有るという話しです。
     京都祇園祭の話しなのですが、現在の山鉾連合会の理事長さんから三代前の田中常雄氏の時のことで、その年の祇園祭りに田中理事長さんが「祇園祭によせて」と言う言葉が記されている内容です。

     『今年、千年の伝統を持つ祇園祭も中止せざるを得ぬか…。と言う時期があった。年毎に嵩む莫大な経費。修理に限界の来た懸装品の新調も含めて既に地元の負担だけではきりぬけられるものではない。
     そんな或日、長刀鉾に一人の小学校二年生位の少年が訪れ、「祇園祭を止めないで下さい」と五十糎程に五円玉をぎっしり通した輪を差し出した。多分こつこつ貯めた貯金に違いない。名前も告げず立ち去った少年の心意気に、我々の心は強くゆすぶられた。
     今年も又、祭の心とシキタリを知った町衆が中心となり、誇りをもって祇園祭をもり立てる決意を新にすると同時に、今こそ山鉾町のみにとどまらず、市民みんなで守る気概を持って頂きたいと切に望む次第である。』

     この話しは少年の善意の心の話しです。この内容を目にした時、私は「もう何も言う事はない祭りだ」と思いました。今も「日本人の大切な心は消えていなかった」と思いました。この事がこの祇園祭の中に有るからこそ日本一の祭りなのです。

F氏  付け祭の世界だけでうごめいている自我の世界の欲とはぜんぜんちがいます。この少年の善意を尊く受け取られた大人達もすばらしいです。本当に良い話しを新年から受け取る事が出来ました。

B氏  先程も話しに出ましたが「悟」と「善意」は自我の欲を捨てないとその心は持てないと感じます。その心が持てない人は一生それで人生を終わって行くと思いますヨ。

A氏  今の時代行政はそこまでの事はまったく理解していませんし、ただ仕事で行っているだけですから。仕事というデスクワークの立場を越えてはいけないと思いますネ。

E氏  ここで少し話しがそれますが世界にある色々な宗教には教えとしてバイブルが有ります。仏教には経、キリスト教には聖書が新旧有り、イスラム教にはコーランの教えがそれぞれ有ります。しかし日本の神道にはバイブルがありません。それは日本民族の生活感そのもの自然の生活がバイブル的意味を持って成り立っているからです。

B氏  最近よく耳にすることですが世界を平和にするのは「もう一神教ではだめだ!」と言う言葉です。

司会  世界の宗教のバイブルはその宗教の元になっている人間が立案した人間に対する教え、つまり経典などは悟りの物なのです。それが頭打ちでダメだとすると何を人間社会は心に持つべきなのでしょうか。

C氏  たとえばこういう事ではないかと思うのです。イスラムの人の中に「神は偉大ダ」と言って人々を殺める人がいますが、神は人々を殺めるほど偉大ではありません。コーランの教えには人を殺めるなどとは記してありません。そんな事をしなくても人間はいつかは死ぬのです。人間が人生を生きて行く事の方がもっとむずかしく偉大なのですから。その人類の生活感の中で悟り戒め善意などの中から自我の欲心も生まれて来たのです。だから人間が生きる事こそ偉大なのです。日本の祭はケ・ケガレ・ハレという三局性の理念が有るのはそのような尊い戒めから出来ていると思うのです。

A氏  日本の祭りがユネスコ世界遺産になった無形の意味の奥にはこの理念が根底に有るような気がしますが。

C氏  これは全て無形の中の奥に有るのであろうかと思う話ですが問題は心の持ち方であろうかと思います。いくらバイブルが有ってもそれに対する心の持ち方が異なっていては本質と違う欲心的な主義が一つのイデオロギーの固まりとなって通常的に横行してしまうと考えられます。

B氏  そしてそれに支配され誰も何も言わなくなってしまう。気が付かなくもなってしまう。

E氏  天の上から神が下界を見て、「もう私の下りる所ではもはやない!」とボヤいていると思えてしまいます。今年も祭りの世界は色々なことが有ったと聞きましたが。

A氏  昨年夏の災害で「祭りと町造り」などといった講演話しはどこかにフッ飛んだように思えます。根本的に学者論は通用しません。祭りも町造りも人間の生活感の中に全て有る事を日本国民は気付くべきです。

司会  そうですね。そこに生きて幸せな印なのですネ。

F氏  今そう言った意味で心から「良い祭りだった!」と思える人はいないのではないかとさえ感じています。

B氏  昨年七月二十三日二十四日行われた神奈川県藤沢市での祭礼で一住民から囃子の音が「煩わしい」と言って神社の拝殿と山車庫二ヶ所に付け火の放火が有ったそうですがこの一報を聞いて「とうとう日本もとんでもない時代になった」と思いました。神社を中心とする神様の祭りと言う物を自己中心的に理解できない自覚の人がその町に住むようになった事でしょうが、その人間が育った環境や精神の戒心たる物が病んでしまったとしか思えないのです。

D氏  以前千葉県成田市でも山車が放火されてしまいましたが、今日本人たる民俗は過去の大切な物に振り向かなくなったと言う心を持ってしまっているのでは。

F氏  これはとても危険なことにつながって行きます。この事は日本人の心の支えに火を付けるような物です。

A氏  今の時代保育園でも祭りの音が煩わしい!と言う御時世ですから。子供をどの様にし、育てて行くのか。

E氏  イベント化しすぎた結果この様な心を起こしても自己の主張を通せると言う事になってしまいますし、この事は個人の権力にもつながって来ます。少し違いますが地主の農政権力も有り新住民と色々トラブルが色々な所で起きてもいます。

C氏  とにかく、祭りに行政ラインのスローガン的なものがからんで来ると兼職志向が付いて来ますからそうなったら祭りはもう終わりです。

B氏  なぜ祭りの空間にスローガンと言う物が持ち込まれたのか、それを少し話す事も必要だと思います。

司会  それも大切な部分ですね。

E氏  人の「心」を左右する国家思想論というバケ物が有りまして、一国の指導者によるスローガンはその国のイデオロギーとなって国を支配します。したがって民衆はそのイデオロギースローガンに対しある種の期待感をいだかせるのにすぎない。民衆は国家たる歴史の中でもっと大切なものに気付かなければならないと思います。

F氏  人の心を左右する「国家思想論」と「多数決論」の歪(ひずみ)が生ずる。このスローガンが祭りの中に持ち込まれたのが「三全総」であった。昭和52年の事です。

A氏  祭りはスローガンなどで行う物ではないと思うし、スローガンはある当事者が一方的に押し付けものであるから、本来祭りとはこのような物に左右されない自然の中にその時期(季節)が来ると沸き立つような気質で行うものかと思いますが。

B氏  だからそれは我国の資本主義が入って来るもっと遠い昔から有る文明文化の歴史の根幹と言えるのです。

A氏  日本人の生活空間は文化であり紙なのです。今目の前に有る情景的空間を一人一人の心で正しく守って生活して行くことが日本人の本質たる紙という物を中心においた祭りであり祭礼の本質的姿なのではないかと思います。

司会  いよいよお時間になって来たようですが日本人が持つ大切な心が祭礼の中に有るように感じます。自我の欲は全ての悪心の元です。自我の欲心ではなく地域への自主性の心が望まれていると思います。

     最後にこの言葉を残したいと思います。桜の花は美しく桜の花は日本民族の心である。日本の心、本当の桜(神)の祭りを行う。日本人として恥ずかしくない祭りを。心にある神の祭りを。

     本日はありがとうございました。


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