・祭りと行政

 現在、全国で古くから伝わる祭りが行われています。それらはその時の時代の背景から生まれた祈願や感謝などを込められたものが多くあり、日本の伝統文化が受け継がれているといっても過言ではありません。
 祭りの運営には様々な費用がかかり、住民の寄付金などでは賄えない部分も多々あります。助成金や寄付金が潤沢にあればいいのですが、そういったところは少数です。行政や商工会から助成金を出す条件として”宗教色を排除すること”になっているところが多いという話をよく耳にします。様々な団体の要望で、踊りや行進などが加わって本来の祭り行事が追いやれる場合もあります。その結果、神社との関係はもちろん、昔からの伝統や仕来たりが消えて観光的なイベントとなる祭りも少なくありません。しかしながら、そういった祭りには本来の意味がなくなり、派手に、面白おかしく、色々なイベントをくっつけることが主体になりやすくなります。

 伝統的な祭りにもそういった歴史があったことも事実です。江戸時代の町民文化が発達して”派手に、豪華に”なっていったとされます。ただし、祭りの真髄の部分は信仰心を持って受け継がれてきたと考えます。そういう部分があるからこそ、”国指定の重要文化財”になるのではないでしょうか。ところが行政は「そういったお墨付きがあればお金は出せるが、そうでなければ宗教色を排除してくれ」というのも違和感があります。神社の氏子だけで行われる神事は別として、附け祭などの行事は一つの文化として行政の援助があっても問題でないような気がします。

 昔から受け継がれた伝統行事が新しく起こした市民祭に淘汰されるのは理不尽です。短期的に見れば新しく起こしたイベントのほうが支持されることもありましょうが、そういうものが長く続くとは思えません。その結果、伝統行事が衰退していくのは日本文化の衰退に関わる大きな問題ではないでしょうか。


・電線の地中化

 最近、電線の地中化が話題になっています。国土交通省は以前から取り組んでいたようですが、東京オリンピックを契機に具体的な計画が進み始めるようです。
 ご存知の方も多いと思いますが、明治に入って電気の普及とともに電線が張りめぐらされ、高さのある曳山の運行が不可能になっていきました。江戸(東京)の山車は地方に売られていき、各地で山車祭りが盛んになっていったという経緯もあります。地域によって、同じように電線の影響で衰退したり、山車の形を変えて高さを低くしたり、架線を工夫して通れるようにしていっています。
 地中化したことによって、本来の姿に戻ったところも増えてきました。特に一本柱の山車は人形が上下できないため、電線があるとまったく運行できません。秩父でも特別曳行ではありましたが、10mを超える笠鉾2基が市内を巡行しました。
 神田祭や山王まつりに大型山車が巡行したら素晴らしいのではないでしょうか。


・人間の命と祭礼

 我が国は災害国家である。それは自然の猛威が多発するという事であって、たえず人の命が脅かされる事にあって、その繰り返しの中から自然に対する戒め(いましめ)という神との接点の信仰が人々の間で古代から引き継がれて来ていると言える。
 昨年の「木曽御嶽山」の自然災害もその例であろう。今人々は自然災害という本質的な意味を忘れてしまっているかのように見えるがごとく知らないし、気が付かない事は残念につきる。我が国にある名山(富士山・白山・御岳山・磐梯山など)とされる山には頂上に神社がかならず鎮座している。これは昔(以前)において災害という「ワザワイ」を起こした山である証しで戒めの為に「社」が鎮座しているのであり、登山は注意すべき山であるという事であろう。それは「山の神」であってやたらに人間は近づけない場所という理念が信仰上我が国には有る。又、震災による津波にもそのことが言え、以前に津波が押し寄せた所にはそれを伝える石碑が建てられていたと言うことから、これなども戒めの石碑なのであると言える。今の時代にこれらの昔からの戒めの言い伝えを世の中が見落としているので運が悪い(間が悪い)と災害に合って命を無くしたりすると考えられる。

 そこで人々の生活の中で祭禮はどのように古代の時代から人々を育み慈しみをもたらして関わって来たのであろうか。
 日本の祭り祭禮という物は現在大きく二分化してしまった。
 それは古代からの祭禮の本質的理念(日本人の心の祭に対する感念)である「神」を戴き、春夏秋冬の自然感の中にその神という戒め(いましめ)や恩恵に触れて人間社会と深く関わって来たと言える意識と、それとは全然関係の無い単なる観光目的のイベント化(コミュニティー)とに分かれていると見受けられる。この流れは放っておくと二進も三進もいかない修正がきかなくなっていく崩壊へとつながっていく。
 この良い例が越中富山八尾町の「おわら風の盆」の行事である。今八尾町では自分達の伝統民俗行事であったはずのものが観光イベント化になり修正がきかず、そのはざまに立たされている。又、高山祭や川越まつりなどもこの傾向が見られている。高山祭などはこのままでは「からくり人形」の本質的意味や祭禮そのものの本質が別の方向へと行ってしまうと思われる気がしてならない。これらの祭禮は形式的には伝統がつながっていくのであろうが、問題なのは人間の心の意識であろうか。

 ここで、この祭禮を行う人間としての意識に付いては祭禮を行う意識はその意志でもある。その意志を統一するのが祭禮組織でもあるが、ここで祭禮組織に付いてふれてみたい。
 この祭禮組織云々(うんぬん)は一つの大きな変わり目が昭和後半期にあったのでここに記してみたい。
 昭和52年頃、当時の福田内閣の時に「三全総」、いわゆる第三次全国総合開発計画という、神社の祭とは関係の無いスローガンが政府からの方針として全国に出された。その有様はイベントを作りたいという狙いで、神社の祭りだけではなく、行政主導のイベント、つまりそれぞれの都市の名を冠した「イベントまつり」を行う事になったとされている。
 そこから我が国の古来からの民俗行事は信仰から地域振興へと変貌し、実体がおかしくなってしまった、といえるのではないだろうか。これに付いては我が国の憲法20条に「信教の自由」という規定があり、その条の特にBには、
「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」
とあってこの事は憲法違反まがいの非常にあやふやなスローガンであったと言える。このイベントスローガンであると昔から祭の中にあった「氏子」や「年行事」などの言葉やその物の自体の形態も消えていくことになりこの様な状況が進行する中で民俗行事保存会の組織もあるが現実に消えて行く事に対して努力が見られない事は残念でもある。
 祭の主権(主催者)は「神」(神社)である、行政ではない。そこには神の威念と理念があっての祭りなのである。又、これは祭禮を行う側、見守る側の両面の祭りに対する理解の心に持つべき念でもある。

 祭と人間の命の結び付きは北九州博多の「鳴水祇園山笠祭」の中にその意味として受取れる情景が当会に会員登録されている方からのDVD映像で観る事ができる。それは山笠行事を行う前に祭りに尽くされた故人の遺影を、もうけた祭壇に飾って参加者全員が「この伝統をひきつぐ誓いの儀式」の姿があって参加者の中には涙をぬぐう人もいて非常に感動する場面である。これは人間の世において素晴らしい事に尽きる。自分達の人生感の祭禮が形体と心が一体となって行なわれているからだ。
 しかし今、日本全国一般的にみられるのは住民(氏子)の神に対する信仰心などは無く、単なるイベント的な楽しさだけが目に付き、人生間の深みの無い人間関係で祭禮を動かしている情景的感覚が観られる。
 そこで本来祭禮の組織とはいかなる組織なのであろうか。私なりに全国の祭りの中から祭禮組織を紹介してみたい。
 まずは岸和田市の「だんじり祭」である。この祭りの祭禮に対する各曳山の組織は皆様も良く知っておられるごとく神事的意向心を持った団結力、統制力は素晴らしく、あの勢いを生み出している。その熱狂的な男達の姿に人々は祭禮という物を見守りながら酔いしれ、その人生を賭けた燃焼的熱狂の空間の中に「神」を感じているのであろう。人間が祭りという物を「目にする事」は「そこに神さんが存在する」という空間(神の舞台)に人々が遭遇(そうぐう)するという事であって、そのへんの観賞的理念を日本人の人々は持たないといけないような気がする。
 単なる人が集まる協同体のコミュニティーであればその様な理念はそこにはないし、必要はない。ただイベントを楽しめば良いのである。しかし、祭禮という物には人が生きて行く為の尊い智恵や戒めの理念などが有ると言う事であろう。そこに暮らした先人達の想い(人生)や、今生きている私達の人生感などその祭禮の奥にある魂は測り知れなく深いものである。世の中が世代交代という人間社会のジレンマをもっている中で祭りの本質を次の代へ伝えて行く事は非常に難しいところである。
 ここで人間としての人生感の有る祭禮組織を紹介したい。それは人生を賭けた「神と人」との祭りの姿でもある。

 「瀬戸内の曽根の祭」
 曽根天満宮の「ヤッサ布団屋台・鼓台」の祭りである。このヤッサを支える祭りの組織の区割は町内会単位の「氏子」である神の主権に沿って祭礼の総代が取り仕切るが、このヤッサを支える組織は「セジヨモト」と呼ばれる祭りの総代の指揮下に町内の旦那衆が世話人として支え、さらに組頭(ワカイモンガシラ)やワカイシュウなどが祭りに参加する為には連中と呼ばれる同じ年代の集団に参加加盟している事などが必要となっている。この連中とは15〜16歳頃に気の合った者同士で5〜6人の仲間を組み、誰か一人の親分を頼みその親分の元で冠婚葬祭などの付き合いを一生続けるのである。
 これは瀬戸内塩田(えんでん)の労働形態から生まれたものとして、祭り組織は親分の元にワカイシュウが集まり構成されている。したがって祭りは地区氏子組織を元にしたタテの組織と連中という同じ年代の者に基づくヨコの組織で作られているとも言える。こうした社会関係の網の目によって祭礼が秩序を脱しないように社会的統制の力で逸脱と拘束の微妙なバランスの上に祭りが成り立ち、それが祭りをダイナミックに動かしている。これこそ祭禮が人間との関わりを持っての人生の一生の命を賭けた姿であると言える。民俗行事とは神の地区に住む人々の人生感の命(生命感)の動脈であってイベントなどの見せ物ではないし、最近見られるように曳山を動かす「祭りごっこ」的な事に明け暮れて大切な物である先人の教えがなくなったとも言え、それはやたらと形式論や経済性だけが伝わるご時世になっている様である。又、祭禮を見守る側の人達も信仰心を持って見守っていればかならずその恩恵に魅了されて神に触れるのである。それが見守る側の祭禮の感念であると考える。祭禮は行政の仕事などで行う物ではない。民衆の人生感の心で行うものであろう。
 祭とは単なる興行的見せ物ではなく、今年の祭りから次の祭へ向けての、人間の日常生活に対する神と一対の枠のはこび(進み)でなくてはならない。これは標山(曳山)を所有している地区の「宿命」でもある。「宿命」とは「前世から定まっている運命」とある。


・曳山祭の移り変わり

 江戸時代、町民文化の発達とともに盛んに行われた曳山祭は、明治に入ると大きく変化していきます。江戸幕府が倒れて明治政府が発足すると、欧米列強に渡り合える国造りを目指していきました。背景としては、政府の使節団が欧州によるアジアの植民地化を目の当たりにし、非常に危機感を抱いた為とされます。国民の意識を変えるものとして、宗教は日本の土着にあった神を重要視しました。それまでの神仏混合を廃止して分離令を出し、仏教は廃仏毀釈の名のもとに弱体化させていきました。国家神道をかかげて天皇を神格化し、神道(神社)を重視していきました。
 祭りについては、仏教的な意味合いが深かったものも、神社の行事として改めていきました。たとえば京都の祇園祭で有名な八坂神社は江戸時代には“祇園感神院(祇園社)”と呼ばれていました。祇園社の始まりは御霊会信仰という、死者の霊をなだめる仏教的な意味合いが強かったと伝えられます。御祭神はそれまでの牛頭天王から素戔嗚尊が前面に出るようになりました。
 江戸幕府とつながりが深かった天下祭は、明治政府の意向もあって徐々に弱体化していきました。江戸(東京)にあった多くの山車はどんどん手放して地方に売られていきました。逆にこのために地方の山車祭りが盛んになっていったという側面もあります。もちろん、電線や市電の影響もありましたが、京都や高山、高岡など巡行路の電線架線の工夫、市電は祭り期間外すなど、祭りを最重視していったところも多くあります。
 世相が移り変わっていっても、祭りは大切にその地域に合った形態で引き継がれていっているのではないでしょうか。
*注 内容には通説のものも多く含まれています。


・日本の祭礼信仰

 以前日本中の村々の集落においていずれも年の凶作や豊作を占う意味が有り、その集落では同じ目的を持った人々によって神事が行なわれていた。このような社会的集団を統一する信仰があったのであるが、それはどのようなものであったか説明したい。

第一 「神々と季節」
春夏秋冬、日本の祭りはこの自然の季節感の中で行われる。この四季の四文字のごとく春から始まるのである。
農業の稲作と祭りは古代から深いつながりがあり、春祭りは農作の予祝祭で春の始めにあたって豊年であることをあらかじめ祝福するたぐい的な神事で「豊凶」を占ったり、農作の「わざわい」をなす物を追払う行事が多く、これに対して秋の祭りは収穫としての感謝祭や豊年祭りとしてにぎやかな祭りが見られている。
春の田植を告げる季節には「桜」の花が咲くが、この「サクラ」の花の名前の由来は「サ」とは古くから田作りの神の意味であり、「クラ」は神が降りて来られる場所のことで、「神の降りる所」、つまりそれは「よりまし」「依代」(よりしろ)と言われる意味の物である。人々の里山に桜が咲くことはその里山に「サの神」が降りて来てくれた事を表し、その花の開花と共にそれは田作りをする合図であったのである。「早乙女」、「早苗」、「サツキ」など田植に関する言葉には「サ」がつけられている。又、秋になると「サの神」は豊作や凶作を見とどけて又山へ帰って行くのだがこの合図を秋の紅葉つまり「もみじ苅」として日本人は生活をして来たと言えるのである。
春と秋の間の夏期の祭りは昔から人が多く住む都会において発達したものでこの時期に多い水の禍や流行病などを防ぎしずめる為に水の神を祭る祇園や天王の祭りが行われる。
最後に冬の祭りは町中ではあまり見られない祭りで山間部に見られる祭りである。
この祭りの特色は火を焚くことである。この時期は太陽の力がおとろえるので火を焚いてその力を復活させようとする意味があるとされ、又旧暦による祭り日には十五日とされる日が多いが、その上下の日を祭り日としている事も多い。又この暦の知識が一般に知られなかった時代には、月のみちかけによって日を数えることが行われ、満月の夜が祭日として行われることが当然でもあり、戸外の照明が発達していなかった時代にはこの夜が最も明るい夜で祭りを行う日として決められた。
又全国を通して一般的なのは小正月の十五日に行う「お火焚き」である。この火祭りは色々な意味を持っているが、すなわち一陽来復、つまり冬が去り春が来ることを促進する為に大火を焚いて太陽を暖めて、その活力を強めることにあったとその意味は伝えられている。

第二 「神座の意味」
民間の特殊神事というものはきわめて民俗学的において大切なものである。今一般的には、「にぎやかな人さえ集まればそれが祭りだ」と思っている人が多い。これは単なる「イベントまつり」で神事の行事と区別せねばならない。
日本の祭りには古風で静かな規模の祭りも多い。その場所に幟(のぼり)が立っていればそこで祭りを行なっていることになり、人々が拝殿に集まってご神酒をいただき、簡単な食事をしながら談笑したり、楽しく一芸を舞ったりした。このことが俗に言う「おまつりさわぎ」と言われるようになったのであるが、中世においてこの楽しい余興的な物が風流(フリュウ)として発展してきて付け祭りとして山車や屋台、鉾車などとして練り回るようになったのである。この風流とは趣向とか思い付きの事であるとされ、現在の付け祭りたる無形的情景の中にある物を意味する。これは神の目を楽しませる目的であった祭りの芸能の本質が、祭りの場に神が出現し、わざわいをなす物を摂状して、人々に幸をもたらすとされる所作芸能に発展した。
そのような流れの中で神幸と呼ばれる神のお旅所へのおでましの行列渡御は美しい行列を仕立てて、その姿は雅で、祭礼のクライマックスとなっている。これは中世以後の京都の祭りがお手本になった形であるとされる。
それ以前の古い祭りはもっと自然性に富みその中で行なわれていた。
昔は一日の始まりが夕方からであり、祭りも夕方から一中夜かけて明け方まで行なわれた。そして翌朝日ノ出を待つ事からこの宵宮を「お日待ち」とも称し、「ハレ」の日を迎えるのである。この宵宮とハレの日の祭礼はセットで一つの流れの神事なのである。
又神座とする所の意味は、古い行事性で言えば神は信仰ということからすれば、その神はお宮に常在しておらず、祭りの時、天から下りるか、山や海の彼方から来訪してくるというもので、その来訪される神々を迎えておもてなしをし、その神々を送り返すことが日本の祭りとされている。
したがって祭礼の間はお旅所が本当の祭場とされる。しかし現在では神社の境内で祭儀を行うことが多いが、特殊神事の頭屋祭りのような祭りになると頭屋の家で行うのである。
日本の祭りの祭場となる場所はそこが神を迎える神聖な場所であることを表す為に標(しるし)を立てるのであって、会所前に造作を行い、木を立てる事もある。又正月に年神を迎える為の門松はその一例でもある。神社には神木と呼ばれる木があるが古くはその木の元において神を迎えたとされる。信州諏訪大社の御柱祭もその意味を持つ祭りとして有名である。
このように神座を固定させていたのであるが、その場所から神を移動させるようになると、一本の木に紙ツデを付けた人が手に持つ「ミテグラ」という物にもその本質的意味があって、その神を移動させる必要性から考えると、まず、柱を立てる事が条件で次に台座に車輪を付ける事が構造的に望まれる。祭礼の鉾車の構造的な原型は、鳥取市青谷上寺地遺跡から出た弥生時代後期の7m以上あったと思われる古代の「楼観」(ろうかん)の柱から考えられる掘立て式の形が原型であって、その楼観に台座と車輪、そして中央に神柱を立てれば鉾の形になるのである。

第三 「祭りと頭屋の人」
祭りは生きている人間社会が行う事であり、祭りは一定の祭祀集団によって行なわれる物であった。その一定の集団とは氏子集団であって、それは氏神祭りである。
その氏子組織集団がその祭りを行うことは、義務というよりそこに住む人々の権利である。氏子以外の人はその祭りに参りに参与することはできなかった。その習慣的掟にそって、子供が生まれるとある年齢になった時、「氏子入り」の儀式をしたのである。その年齢は7才とされ、その氏子入りはその地域たる社会の一員となる第一段階であった。又その時に氏子札とされる物を神社から出したとされている。これはその神社の氏子員として一人前になる資格を得ることを意味しているのである。
祭りの儀式は現在神社の神職によって行なわれていて、それは神社祭式とされているものである。しかし全国的には古い祭儀の祭りもあり、特殊神事とされる形式の物も各地に残っている。
この特殊神事はそのお宮に古くから伝わって来た神事で神職ではなく氏子たちによって行なわれてきた祭りである。このことはこの地に住む人々の事情によって自然の営みの中で古くからこの方法で行なわれてきたものである。俗に言えばその形は頭屋祭と呼ばれてもいる。
その祭りは氏子の中から毎年「トウヤ」(頭屋)になる人が選出され、その者が祭儀を主宰するのである。その決める方法は神前でクジ引により決める事が多いが定められた順に回るものもある。この頭屋は出産や不幸があった家の者は務められないとされ、一年間は精進潔斎しなければならない。毎日お宮に灯明を上げたり、祭りの時などは、氏子にご馳走を「頭振舞」と称して行なったりせねばならない所もあって、それは経費の掛かった大役でもある。これはその土地を支配感念する神とその自然界の中に生きる人との間に誓約の理念がある事を表している。それを決められた季節感の日において淡々と取り行うのである。それが日本の祭りなのであり、そこには「ケ」から「ケガレ」、「ハレ」と言う三局の繰り返す理念が人間社会に成立しているのである。以上の内容からそれを務める「権利」が氏子たる物であって、この無形の生活感が崩れたらそれはもう祭りではないということになる。

第四 「神と物忌」
日本の祭りがイベント化するなかで忘れていかれる物が多い。祭りは昔から「決め事」や「シキタリ」が多い。これらの物事は便利性を求めるあまり近年の時代背景から消えて行くものが多い。
その消えて行く物に「物忌」が有る。日本の祭りには必ずこの「モノイミ」が行なわれる。祭りは必ずこのモノイミを伴うものでこれを除外しては、祭りは考えられないとされている。この事は精進ともいい身を清めて神聖なる祭りを行う状態になる事を言う。

第五 「神と供物」
日本の祭りには海の産物を神前に供えるのがきまりであって、その祭りの魚を準備するために漁場が有るとされ、年中行事を見ても正月の魚、盆の盆魚などと決まっていて、必ず用意しなければならなかった。海の生魚が手に入らなかった山間部では、正月に昆布などを用意し、もっとも簡単なものは塩であった。この事は我国の風習上において不祝儀ではない事を意味している。この海の産物を重んずることは「海の彼方から神が訪れる」ことを意味しているのであって、古代信仰との深いつながりがそこにある。
神輿や山車を浜出神事とか浜降し祭りなどとして海に乗り入れたり、舟に乗せて海上渡御を行う祭りは多い。だが、神を「マツル」のに最も簡単なのは「神酒」を捧げるだけの形で、山中で山神を祭る時に折掛樽なる竹の管に酒を入れて上げるだけの祭儀もあって、その姿は林業やマタギの人たちにその姿を見る事ができる。又、秋の祭りに「どぶろく祭」なども見られる。
供物には「米、餅、団子、魚、野菜」などをつかうのが一般的であるが、神道の方では神饌を生物と煮焼きした物とを分けているが、供物は神人共食の為にあるものなので、人が食べられる状態にして神に差し上げるべきものであって、今はその方法は変わってしまった。今のように生物を三宝に乗せて上げるなどは、昔はしなかったとされ、米だけは洗米といって生米を上げた。生米はそのまま食用とされるからでもあって、その他には変わった祭りに「独活祭」や「生姜祭」、「鱧祭」などがあり、山の祭りには米粉を清水でこねた「シトギ餅」を供える所もある。

第六 「囃子と舞」
 古くから行なわれて来た囃子の歴史は農村生活と深いつながりが有り、田植を行う時に田植の音頭取りなどにもその囃子の姿が見られ、それは今も「田植の神事」として残っている。これらの囃子は郷土の故老から若者へと代々伝承されて来たことでもある。
それは、誠に尊いことであり、郷土芸能としての歴史たる流れは、古くは神楽舞や伎楽などが有って、その流は勝舞や田楽法師などと結び付いて盛んに行われて来た。
これらの流が民間の祭礼に上演されて来るようになったと言われ、その道の歴史の筋たるは、人皇三十三代推古朝の御字、秦河勝舞を始め、三十六番の面を造る。とあり、七十三代堀川院、永長元年に京都にて、田楽法師などが流行していて、白河法皇院の頃にはこれらの技芸を観照したとあり、これらの記はこの技たる物の起源として源氏物語や宇治拾遺及び都の古書に記されている。
ここに記した「秦河勝」(はたのかわかつ)は飛鳥時代に活発に時代を動かした人物で、歴史の中では聖徳太子の側近中の人とされ能楽の最高峰とされる金春流の祖主としても有名で、渡来人一族の「秦氏」の族長とも言われている。又、四世紀に彼ら秦氏が日本に渡来してから、我国の文化は大きく変遷、文化移行が起こり、先にも記したが、これらの流は上代に神楽、伎楽、田楽などがあって民間においてそれらを土台にした郷神楽も生まれ、村々の鎮守祭に豊年祭として山車や屋台において上演されるようになった。しかしこれは人々にとって祝いへの楽しい場であると共に鎮守神たる神への奉納の儀礼つまり感謝としての深い意味を持っている。


                          発行 平成三十年二月吉日
                             文     小坂部雅利
                             文作製協力 細井実
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