< 岸和田の祭礼組織 >

岸和田祭は町会・年番の組織がうまくかみ合ってとり行われる。
町会は町会長を総括総任者とする。
祭礼団体では曳行責任者を長とする。
また、担当部署別にも長があり、ピラミット型の組織となっている。
なお、年番は昔の浜・町・村の3地区(三郷)から1年毎の輪番制で選ばれ、互選で選ばれた年番長は、その年の最高権威者となる。
 年番の歴史をひもとくと、天保9年(1838年)に記録に初出で、当時は浜7台・町5台・村3台の壇尻であった。
 昭和32年(1957年)より3地区より各1町
 昭和41年(1966年)各町選出の年番制が発足
と変わってきているが、現在、年番は祭礼の責任者として、その号令は全地区に及ぶ。毎年、中央地区・浜地区・天神地区の3地区より2名・計6名が選出され、互選により年番長以下役員を決めていた。
 平成8年より、年番担当町を基本的に順番制とし、他は互選している。

                   祭り文化研究会  岸和田登録協力会員


<相模国と江戸との関連と当地の祭礼事情について>

旧相模国は、陸地からは江戸からの東海道で色々な文化が進入してきたようです。一方、海路でもかなり古くから江戸との結びつきがあり、陸路に比べ重量物の運搬に有利なふねを使って、文化(特に物体)が進入したようです。
江戸幕府が延宝二年(1674)に指定した「江戸城御膳御用付浦」には、横須賀、大津、馬堀、走水、鴨居、東浦賀、西浦賀、久里浜、松輪、三崎町、城ケ島、城村、小坪が入っています。この付浦は、延宝五年(1677)に追加があり、材木座、坂之下、江ノ島、片瀬、腰越、鵠沼、須賀、平塚宿、が入りました。さらに天和元年(1681)に、大磯宿、小磯、国府本郷、国府新宿、梅澤、塩海が追加されました。
このように、横須賀市から二宮町にかけての浦(港)が江戸時代から結びついていました。

当地、相模国鎌倉郡片瀬村には諏訪神社があり古来より祭礼を挙行していました。江戸期は7月27日が祭礼で、七日前に旅所を建て幟旗を上げていたそうです。新暦になってからも7月27日に祭礼を行っていましたが、旧暦と一ヶ月以上の差があるため、昭和30年代に、8月27日に祭礼を変更しました。
また上年番(上諏訪神社氏子町の東り町と下之谷町が担当)と下年番(下諏訪神社氏子町の新屋敷町と西方町が担当)で神輿渡御の経路が異なっていましたが、交通事情により現在は下年番の経路に統一されています。
祭礼の日程、組織などについては昨年の状況を添付いたしました。

祭礼の詳細ですが、8月23日に出御祭が行われ、仮宮に出御し幟立てを行います。かつては夕刻に上諏訪神社の神輿が町内渡御をしていましたが、現在は行われておらず、山車、屋台の町内回りだけとなっています。
8月26日は宵宮祭で、山車、屋台の町内回りが行われます。古くは町内回り終了後、神酒所でおこもりをして翌日の浜降祭に備えたそうです。
8月27日は、午前4時に下諏訪神社に各町屋台が集合して、上諏訪神社の神輿と同行して
片瀬東浜に浜降祭(禊)に行きます。海岸では海藻のほんだわらを取り、山車、屋台や神酒所に吊るします。下諏訪神社に帰還後、新屋敷町以外の屋台は神酒所に帰り、新屋敷町から神輿渡御が始ります。行列は、真榊、神旗、剣鉾、曳き太鼓などで構成されています。神輿渡御は一日かけて片瀬じゅうを回り、午後5時に片瀬と腰越の境にある龍口寺前に到着し、待ち構えていた山車、屋台と合流します。午後6時から国道467号線で還御パレードが行われ神幸祭は終了します。
翌、8月28日に鉢払いが行われ、幟旗を降ろします。

山車については、現在のものは大正末期から昭和初期に作られた湘南型山車ですが、先代は一本柱万灯方山車だったようです。

片瀬諏訪神社の資料

                     祭り文化研究会  藤沢登録協力会員
 

<祭りのこころ 〜変化する伝統と祭礼〜>

新島  章夫

 「五穀豊穣」「疫病退散」は、現在耳にすることもない、死語に近い単純な慣用語で、五穀の意味も豊穣の意味も、恵まれた現代人には理解できなくなっています。コンビニやスーパー、デパートに行けば、その五穀を含め全ての食品が豊富に揃っていて、その上多種多様な治療薬や特効薬があり、一人で賄うことが出来ます。しかし、今も農耕社会では自然の大きな力の前には思いのままにならず収穫ができないこともあり、疫病の代わりに現代の最新技術を駆使しても治せない大病が発生しております。
 昔の人々は自然の大きな力に恐れおののき、総てのことが大自然を造っている天上での神々の采配と思い、私違が平穏無事に生括が営めるよう、只々ひたすらに祈ったのです。くらしの中での喜びは神仏から賜ったもの。地震、火事、病気などの災いは神仏のお怒りと考えていたのです。ですから総てのことが私違の行いによって起きることで、自分自身の責任と真摯に受けとめていたのです。昨今は何事においても不都合が生じると、社会が、まわりが、あの人がと責任耘嫁し、自責の念が欠けて来ています。それでは神仏を崇拝し、祭りを司ることは到底叶いません。明晰な頭脳を持つ現代人は、地球環境、温暖化等の問題を取り上げていますが、遠い昔の人々は既に自然破壊を防ぎ、自然との調和を基本に考えていたのでした。
 多くのお祭りは冒頭の願いが成就できますように神々を敬信し、その感謝の御礼として執り行われてきたものです。

 当地最大の伝統行事、熊谷うちわ祭(祇園祭)も又同様であります。今から1100年前、疫病退散を願い、京の祇園社で発祥した祇園御霊会(祇園祭)は全国各地へ伝播し、大永年間(1521〜1528)に熊谷の地に祇園社が分祀され、神輿が各地区を渡御したのです。その後、江戸末期になり狂言屋台なるものが出現し、祭りに賑わいを見せていますが、熊谷に残る古文書の中に「狂言屋台なるものに関わり浮ついた者に、神聖な神輿を担いでもらっては困る」と記されています。いつの世も神の前では厳粛であれ、と言っているのでしょう。
 江戸の祭りの代表と言われた天下祭(神田・山王)は華やかな山車祭でその名を馳せましたが、明治に入り翳りを見せ各町で使われていた山車が地方に売り出されたのです。その中の一台を神田から熊谷が購入して現在の山車祭の形態の基となったのであります。明治24年の出未事で、ここから熊谷の祭は一気に盗り上がり、大きく発展します。
 江戸は東京となり文明開化の風潮の中、近代化のために町並が変容し、電線が張られ、鉄道が敷かれ、地域は分割され、そのため江戸最大の文化であった山車が不要と言われたのであります。そして、江戸は山車に変わり町神輿となり、その反対に地方が神輿だけの祭りに、山車の出る付祭りが加わったのであります。正に郡市と地方の逆耘でありました。時に伝統文化は思いがけなくも、大きな変化を見せるのであります。
 その後、熊谷では付祭りとして現在の12台の山車・屋台の出る華やかな祭りにと変貌を遂げたのです。しかし、ここに大きな落とし穴があります。華々しく派手さを増すと共に、ややもすると遊興的要素が強くなって祭りの本筋から逸れ、その意義が失われてしまいます。伝統と継承の難しい点でもあります。伝統だからと言って総てを頑にこれでいいのだ!とお仕着せでは折角の文化も停滞してしまって変に因習を残し、稀に頽廃を招くこととなります。京の祇園祭も、江戸の天下祭も、その時々に新風を取り込み少しずつ変化をし、より良い形式を作り上げてきました。祭囃子も然りで、一地域で発祥したものが伝播され、その土地柄の色付けが加わって特有の囃子が発生してきたのです。神事も付祭りも時代の中で外見的な変化を見せますが、中心である神事の意図は不変であり、ここに祭りの大本(たいほん)があります。だからこそ長い年月、脈々と伝えられて来たのです。大きく変化を見せた東京も、尚不変の大本のため現在に受け継がれて来ているのです。しかし、どんな祭りにしろ平和の中で成り立つものです。天災、戦争を含む人災が起きたらその余裕はないのです。歴史ある京の祇園祭は応仁の乱で余犠なく中断します。人災は人々の考え一つでそれを止めることが出末ますが、天災を防ぐことは出末ません。だから人々は謙虚に神仏に祈ったのです。
 祭礼文化ほど多くの人々に支えられて現代に伝えられているものは他に類をみないでしよう。老若男女が何らかの形で関わり、神々と先人に対し畏敬と感謝を持って奉仕する事により、強い連帯感が育まれ、郷土の誇りとなる祭りが作り出されるのです。

 現在、各学校で「総合的な学習」の授業を行っています。今までと違い自分達の住む町の生活・文化・歴史等を学ぶ時間です。幸い私は地元小、中、高校より熊谷の伝統文化の講義の依頼を受け、各校で“熊谷の祭り”のお話しや、囃子の実演・指導をする機会にあずかつておりまず。子供達にとって一番身近な最大の行事でありますので、大変楽しみに興味を持って受講してくれます。
かつて祭りの意義や歴史等の詳しい知識はどこからも指導されていないので、浅念ながら多くの人達は内容を知らずに祭りに取り組んでいたのでした。ここ数年、総合学習の中で多くの子供違が、しっかりと内容を捉えることができて、次代の祭りが本来の目的を失うことなく、新感覚の中で立派に伝承され、更なる発展を見せることと信じております。


<藤塚神社祭礼を見て>

岩田 美恵子

 今回は石川県白山市にある藤塚神社祭礼を見学に行きました。この祭りは「美川町のおかえり祭り」として知られていて、江戸時代から伝わるものだそうです。研究会会員の皆様と電車を乗り継いで金沢に到着しました。会員の方より、金沢は昔から都との関係が深く、京都の文化であることや、祭りのこの土地に住んでいる人たちだけの神社と神様の本来の祭りを行っている姿が見られると聞き、期待に胸はずみました。
 北陸本線で小松方面に進み、車内での会員の話では、美川は比較的小さな港町ですが、町の歴史は古く、江戸時代は加賀前田藩の領地、北前船の船大工と回船問屋の財力で「台車」と呼ばれる曳山が14基ほど曳かれると言います。
 いよいよ美川駅に到着、駅前に田園風景が広がりました。のどかな雰囲気で、祭りの気配はあまり見られませんでした。人影もあまりないので、送られた地図を頼りに歩き、私の昔の地元の風景が思いおこされ、また、家の玄関先に祭礼用の提灯がかけられた風景に、会員も和やかに歩いて行きました。
 祭りは今日が宵山で,藤塚神社を出られた神が鎮座されている神輿が御旅所へ向かう「神幸祭」になります。一夜お旅所で休まれた神様が、明日の夜に再び行列を連らねて神社にお帰りになる「還幸祭」です。
 藤塚神社へたどり着き、会員と総代さんの方々と交流を図り、“今年は祭りにかなりの費用をかけて50年ぶりにお旅所を新調された”とのお話などを伺いました。目の前にはあまり見たこともないような立派な神輿が安置され、それは素晴らしいものでした。しばらくすると2人の巫女さんが神輿に向かって舞の奉納を始めました。この光景に見とれ、決して悲しい訳でもないのに感動の涙なのか、涙がこみ上げて止まらなくなり、ハンカチで拭うほどになりました。今まで味わったことのない、自分にも分らない、不思議な体験でした。
 次はいよいよ町へ繰り出して台車との出会いです。まず気づかされたことは、祭りに参加される男衆の老いも若きも全員が黒の紋付き、羽織、袴、白足袋の出で立ちです。昔から女人参加はご法度のしきたりらしく、とにかく男衆が恰好良いのです。さて、次々と現われる台車、一番のメインは何と言っても神様の先導役と言われるラッパ隊でしょう。若き青年が地面を這うように旗を振り、舞う姿が印象的で、また、獅子頭を持った青年と、二人の刃を持った青年との戦いの見せ場に、よほど練習を重ねなければ怪我もしかねない激しく、迫力に満ちた戦いぶりでした。今思い起こしても、あのお囃子は上手かったなあと耳に残る、大変有意義な、忘れられない旅となりました。同行の皆様にお世話になり、ありがとうございました。


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